土井縫工所の歴史

創業者・土井好(よしみ)は1920年、香川県の貧しい家に11人兄弟の次男として誕生。幼少時から学業よりも家族の生活の糧を得るため仕事に従事させられました。

漁師見習いや塩田作業、一時期には両親と共に開拓団として北海道に渡り、冬季は過酷な酪農業に従事するなど、たいへんな苦労をしたのち、17歳の時に縁故を頼って大阪へ。シャツの縫製を習うため小さな縫製工場で修業を始めました。

しかし、1941年(昭和16年)太平洋戦争が勃発したため陸軍に徴兵されて南方前線へ赴き、幸運にもインドネシアのパレンバンで終戦を迎えました。1946年(昭和21年)に復員して、その年にアヤ子(現副会長)と結婚。翌年、再び縫製修業のため単身大阪へ出てきた折りに、現在のドゥ・ワン・ソーイングの縫製技術のルーツである竹田軍司氏と出会い、本格的にシャツ縫製の修業を始めました。

天職に出会ったのでしょうか、たちまち技量を発揮し1952年(昭和27年)、32歳で竹田師匠のお墨付きをいただき独立。妻・アヤ子を呼び寄せて大阪市東成区に14坪の小さな長屋を購入し、「土井縫工所」として創業しました。

事業は順調に業績を伸ばし、翌年には大阪市生野区に35坪の家屋に移転。
見習い職人(当時は郷里から若者が住み込みで働きに来ていました)を10名に増やしました。

昭和32年同生野区舎利寺に72坪の家屋に移転して、職人も25名に増員。
当時は高度成長期でもあり、対米向けの仕事で繁忙を極め、職人達は朝食を済ませると午前8時には始業、昼食、夕食の休憩を挟んで終業が午後10時という毎日。

休みは毎月1日と15日の月2回という、現在では考えられない労働条件だったようです。


こんなエピソードがあります。

当時は自宅兼作業場兼独身寮なので、家族を含め、約30人がひとつ屋根の下で生活をしていました。専任の食事係りの人が毎回食事の支度をし、男子と女子が交替で食事を取ります。食べ盛りの若者ばかりなので、毎回ご飯は10升釜で2度焚き。1日の米の消費が60升だったとか。お風呂が一つだったので交代で入るため、最後の人が入る時にはお湯が殆ど無く、夜中の12時を回っていたそうです。

毎日午後10時が終業時間なので、従業員の夜食を用意していました。コッペパンとりんごが1個ずつです。その夜食を毎日買いに行くのが、幼少期の相談役と私の担当でした。夜、コッペパンとりんご30個ずつ自転車に乗せて買って帰るのですが、幼い私達にとって、冬の寒い夜はとても辛かったのを覚えています。

このころは、もちろん私達だけでなく職人達も大変で、当時の新人は、仕事を覚えるにも懇切丁寧に教えてもらえるわけもなく「親方の手の動きを見て自分で覚えろ!」式で技を盗み、ミスを犯すと尺差(竹の物差し)で手の甲を叩かれるという厳しい時代でしたが、社員一丸となって、懸命にシャツづくりに励みました。

このような長い歴史を経て、そのシャツ作りの技術と精神が60余年間脈々と現在の株式会社ドゥ・ワン・ソーイングに受け継がれています。


株式会社ドゥ・ワン・ソーイング
代表取締役社長 土井 順治

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